Spirit of Flamme—飯嶋真美の女性活躍とは【vol.2】戦中~高度経済成長期

2020.10.30.

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Spirit of Flamme

Spirit of Flamme—飯嶋真美の女性活躍とは【vol.2】戦中~高度経済成長期

こんにちは。
フラームジャパンです。

先日公開いたしました、「Spirit of Flamme—飯嶋真美の女性活躍とは【vol.1】産業革命~戦前」。
みなさんご覧いただけましたでしょうか?

vol.1ではイギリス産業革命まで遡り、戦中至るまでの「女性と労働」、そして人々にとっての「働く意味」について探っていきました。

今回のvol.2では、戦争を経て人々の「仕事」への向き合い方がどう移り変わっていったのかと共に、女性にとっての仕事がどう変わっていったのかにフォーカスしていきたいと思います。


戦中の女性と仕事

男性の「代わり」として働き始めた女性たち

前回の振り返りもかねて、まずは戦中の女性の働き方について見ていきましょう。

戦中の女性の働き方の特徴として、男性の「代わり」として労働に従事していた女性が大半だったことが挙げられます。

徴兵により、いわゆる働き盛りな若い男性はほぼ国内から姿を消しました。

しかし、それでも食糧確保としての農業や武器生産のための重工業など、動かし続けなければならない産業は多くありました。

国に残された女性や学生、高齢者たちは、国家総動員法のもとこれらの労働に従事していきます。

この当時の仕事は、特に「労働」としての面が強かったことが特徴になります。

「生きるため国のため」という気持ちで働かざるを得なかった彼女らにとって、「働きがいや自己向上のため」という気持ちで働くことはとても難しかったはずです。

加えて、戦争による人口減少問題の解決として早婚・多産が推奨された背景もあり、当時の女性は家事労働における負担も激増していたと考えられます。

当時の女性たちにとっては、「本業」であった家事労働に加え、それまで「副業」であった外での労働にも積極的に従事しなくてはならなったと言えるでしょう。

終戦と男女平等への歩み

女子差別の撤廃が図られた時代

1945年に終戦を迎えた日本では、GHQによる統治のもと民主化への動きが始まりました。

特に女性活躍の視点から大きな進歩だったと言えるものに、以下の3点が挙げられます。

①憲法改正により、「法の下の平等」が保証された


1946年に公布された日本国憲法第14条により、“すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(省略)”と定められました。

これにより「法の下の平等(=平等権)」が正式に認められることとなり、あらゆる面での男女格差が見直される根拠となりました。

男女平等

②女性の参政権獲得


それまで普通選挙法により25歳以上の男子にのみ与えられていた選挙権。

しかし、1946年の衆議院選挙法の改正により、20歳以上の成人男女すべてに選挙権が与えられるようになりました。

また、被選挙権についても性別の規定はなくなり、男女問わず選挙に立候補することができるようになったのです。

これにより男女間における参政権の差はなくなり、社会的な点で男女格差が縮小されるとともに、国政に女性の目線が取り入れられるきっかけとなりました。

 

女性選挙権③学制改革


男女間で賃金・就職の格差が生まれる要因のひとつに「被教育の質の差」が挙げられることは前章にも記した通りです。

この教育格差にメスを入れることなったのが、学制改革です。

高等教育に進むことがほぼなかった当時の女性。

進学しても「高等女学校」といういわゆる「良妻賢母」を育てるための教育がメインとなり、そこで受けた教育を社会に出て生かすという目線は求められていませんでした。

しかし、学制改革により高等女学校は廃止。代わりに新制中学校や高等学校が設立されることになり、男女の区別なく同等の中等・高等教育を受けられるようになりました。

これにより、男女間で受ける教育の差は著しく小さくなり、女性の就職の幅が広がる礎となりました。

教育体制強化

朝鮮特需と女性の就業

著しく成長する経済とともに、女性の雇用機会が広がっていった

戦後の改革の中で、女性の社会的地位が向上してきた近代日本。

しかし、それでも人々の中にいまだ「女性は家にいることが幸せである」という考え方が一般であり、こと労働については古い考え方がはびこっている時代でした。

そんな近代日本において、女性が社会に出るきっかけとなったのが戦後の大きな2つの経済成長。

まずはその一つ目である朝鮮特需について見ていきます。

1950年にアメリカとソ連の代理戦争ともいわれる形で勃発した朝鮮戦争。

当時アメリカの占領下にあった日本は、この戦争に伴い軍用品や韓国復興資源等の製造・輸出を担いました。

これにより日本の労働需要は激増し、女性たちは繊維産業や各産業分野の事務職や販売職として仕事に従事するようになりました。

またこれに伴い、それまで男性が主に就いていた職業についても女性に門戸が広げられるようになり、女性の職業選択の幅が広がりました。

職業選択

高度経済成長期における女性

家庭に入った女性が「働きやすくなった」時代

朝鮮特需からあまり間を開けず、日本は第一次高度経済成長期を迎えます。

欧米からもたらされた革新的技術を日本の企業が積極的に取り入れたことにより生産性が拡大にアップし、朝鮮特需下を上回る勢いで労働力が必要となりました。

この労働力を補うこととなったのが、中学校を卒業したばかりの若い人材たちです。

学制改革により高等学校への進学機会が男女問わず与えられるようになっていたものの、特に農村部では経済的事情から高等学校に進学できない子どもたちが多くいました。

かといって、農村部には働き口もほとんどありません。

農業

一方都市部では学歴インフレが起こり平均就業年齢が上昇したことで、ブルーカラー(製造業)やサービス業における労働力が不足している実態があったのです。

そこで地方出身の中卒労働者たちは、都市部の製造・サービス業に就職するようになりました。

これらは各地方自治体の職業安定所により斡旋されている例が多く、職業安定所を通じて就職した中卒労働者たちはまとまってひとつの列車に乗り、各都市部の就職先に赴きました。

これが俗にいう「集団就職」です。

多くの場合中卒労働者は高卒・大卒労働者より安価な労働力であったため、需要が拡大している工業・サービス業界において、彼らは大変貴重な人材でした。

一方で高卒・大卒労働者は公務員やホワイトカラーのサラリーマンとして働くことが多くありました。

 

集団就職と女性の仕事


集団就職下では、女性も多くの場合就職することが可能だったと言われています。

しかし女性中卒労働者たちの就職先は、たいていの場合職業訓練をあまり必要としない簡単なものや事務職、サービス職が多かったようです。

また高卒や大卒の女性についても、中卒労働者と比べれば高度な仕事が多かったとはいえ、あくまでメインで働くのは男性であり、女性は補助的な職務に従事するケースがほとんどでした。

当時の高学歴の女性がメインとなって従事できる仕事は、教師や看護婦(当時)など、女性が持つとされる「母性」を根拠とした職種が大半だったのです。

なぜなら、当時の女性の平均結婚年齢は24.4歳。

まだ「女性は結婚したら仕事をやめ、家庭に入ることが当たり前」とされていた当時では、女性が長く働くことは考えにくく、女性には育成コストがあまりかからない仕事ばかりが与えられるようになっていました。

看護師_介護職

豊かな社会の実現と女性の就業機会増


次第に農村部含め高校の進学率が上がっていったことにより、中卒労働者を都市部にまとめて送る集団就職は、1970年頃には衰退していきました。

高学歴労働者たちはより高度な技術・知識を要する仕事に従事するようになります。

この教育の充実が、日本の第二次高度経済成長期を招いたことは事実であるものの、結果的に事務職やサービス職に従事する人材が不足するようになりました。

そのとき、目をつけられたのが既婚の中年女性たちだったのです。

1950年代頃から急速にモノが豊かになっていった日本。有名どころでいえば「三種の神器」と呼ばれる白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫等の普及が挙げられます。

他にも電気炊飯器や電気掃除機等、さまざまな家電製品の充実により、家事労働に従事する女性には今までにないゆとりが生まれました。

核家族化により子どもの数も戦後まもなくに比べると落ち着いていることもあり、子育てをひと段落させた主婦たちはパートタイマーとして働きに出るようになります。

これが集団就職の衰退により生じた人手不足を、解消する一手段となったのです。

家事_育児_働き方

高度経済成長による女性活躍推進の弊害も

「性」の役割がより明確化されてしまった時代でもある

上述の通り、高度経済成長は女性に限らず多くの人にとって、学歴向上・就業機会の増という喜ばしい結果をもたらしました。

しかし女性活躍の観点から見ると、この高度経済成長がもたらしたものは、ひとえに喜べるものばかりではありませんでした。

一般的に男性と女性の「性的な役割」が明確化されたのはこの時代であると言われているためです。

日本の高度経済成長は、人々の長時間労働に支えられました。

そのためそれまでの性役割を基盤に、

「長時間労働をして家庭を潤す男性と、それを無償の家事労働で支える女性」

という性役割が、人々の中でより一層確固たるものとなっていきます。

そのため女性の就業機会が増えた一方で、就ける職業は高度の教育・技術を要さないものばかりで、実質職業選択の自由はないに等しかったのです。

また技術も経験も不十分なまま結婚して仕事を一度やめてしまった女性にとって、再就職は至難です。

そうなると最早正社員としての雇用は諦めざるを得ず、結果として前述のようにパートタイマーとして再就職するしかない状況がありました。

女性活躍の歴史②戦中~高度経済成長期のまとめ

徐々に女性の就業機会が増え、「はたらく」ことを考え始めた時代

いかがでしたでしょうか?

戦中から高度経済成長期にかけて、女性の就業機会とその幅はどんどん増していったことがわかります。

一方で男性と女性のそれぞれの性役割が、より明確に線引かれるようになったのもこの時代の特徴です。

また働けば働くほど豊かになっていく時代だったこともあり、この時代の人々にとってまさに仕事とは「ライフワーク」そのもの。

自らの望む生活や豊かさを、手に入れるための手段としての面が仕事には色濃くありました。

国際婦人年を契機に女性の労働が見直され、またバブル経済の崩壊を迎えることで女性に限らず、全ての人にとっての「はたらく」価値観が激動することとなる近現代。

どのように人々の働き方は変わっていくのでしょうか。

次回もお楽しみに!

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2020.10.30.

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こんにちは。
フラームジャパンです。

先日公開いたしました、「Spirit of Flamme—飯嶋真美の女性活躍とは【vol.1】産業革命~戦前」。
みなさんご覧いただけましたでしょうか?

vol.1ではイギリス産業革命まで遡り、戦中至るまでの「女性と労働」、そして人々にとっての「働く意味」について探っていきました。

今回のvol.2では、戦争を経て人々の「仕事」への向き合い方がどう移り変わっていったのかと共に、女性にとっての仕事がどう変わっていったのかにフォーカスしていきたいと思います。


戦中の女性と仕事

男性の「代わり」として働き始めた女性たち

前回の振り返りもかねて、まずは戦中の女性の働き方について見ていきましょう。

戦中の女性の働き方の特徴として、男性の「代わり」として労働に従事していた女性が大半だったことが挙げられます。

徴兵により、いわゆる働き盛りな若い男性はほぼ国内から姿を消しました。

しかし、それでも食糧確保としての農業や武器生産のための重工業など、動かし続けなければならない産業は多くありました。

国に残された女性や学生、高齢者たちは、国家総動員法のもとこれらの労働に従事していきます。

この当時の仕事は、特に「労働」としての面が強かったことが特徴になります。

「生きるため国のため」という気持ちで働かざるを得なかった彼女らにとって、「働きがいや自己向上のため」という気持ちで働くことはとても難しかったはずです。

加えて、戦争による人口減少問題の解決として早婚・多産が推奨された背景もあり、当時の女性は家事労働における負担も激増していたと考えられます。

当時の女性たちにとっては、「本業」であった家事労働に加え、それまで「副業」であった外での労働にも積極的に従事しなくてはならなったと言えるでしょう。

終戦と男女平等への歩み

女子差別の撤廃が図られた時代

1945年に終戦を迎えた日本では、GHQによる統治のもと民主化への動きが始まりました。

特に女性活躍の視点から大きな進歩だったと言えるものに、以下の3点が挙げられます。

①憲法改正により、「法の下の平等」が保証された


1946年に公布された日本国憲法第14条により、“すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(省略)”と定められました。

これにより「法の下の平等(=平等権)」が正式に認められることとなり、あらゆる面での男女格差が見直される根拠となりました。

男女平等

②女性の参政権獲得


それまで普通選挙法により25歳以上の男子にのみ与えられていた選挙権。

しかし、1946年の衆議院選挙法の改正により、20歳以上の成人男女すべてに選挙権が与えられるようになりました。

また、被選挙権についても性別の規定はなくなり、男女問わず選挙に立候補することができるようになったのです。

これにより男女間における参政権の差はなくなり、社会的な点で男女格差が縮小されるとともに、国政に女性の目線が取り入れられるきっかけとなりました。

 

女性選挙権③学制改革


男女間で賃金・就職の格差が生まれる要因のひとつに「被教育の質の差」が挙げられることは前章にも記した通りです。

この教育格差にメスを入れることなったのが、学制改革です。

高等教育に進むことがほぼなかった当時の女性。

進学しても「高等女学校」といういわゆる「良妻賢母」を育てるための教育がメインとなり、そこで受けた教育を社会に出て生かすという目線は求められていませんでした。

しかし、学制改革により高等女学校は廃止。代わりに新制中学校や高等学校が設立されることになり、男女の区別なく同等の中等・高等教育を受けられるようになりました。

これにより、男女間で受ける教育の差は著しく小さくなり、女性の就職の幅が広がる礎となりました。

教育体制強化

朝鮮特需と女性の就業

著しく成長する経済とともに、女性の雇用機会が広がっていった

戦後の改革の中で、女性の社会的地位が向上してきた近代日本。

しかし、それでも人々の中にいまだ「女性は家にいることが幸せである」という考え方が一般であり、こと労働については古い考え方がはびこっている時代でした。

そんな近代日本において、女性が社会に出るきっかけとなったのが戦後の大きな2つの経済成長。

まずはその一つ目である朝鮮特需について見ていきます。

1950年にアメリカとソ連の代理戦争ともいわれる形で勃発した朝鮮戦争。

当時アメリカの占領下にあった日本は、この戦争に伴い軍用品や韓国復興資源等の製造・輸出を担いました。

これにより日本の労働需要は激増し、女性たちは繊維産業や各産業分野の事務職や販売職として仕事に従事するようになりました。

またこれに伴い、それまで男性が主に就いていた職業についても女性に門戸が広げられるようになり、女性の職業選択の幅が広がりました。

職業選択

高度経済成長期における女性

家庭に入った女性が「働きやすくなった」時代

朝鮮特需からあまり間を開けず、日本は第一次高度経済成長期を迎えます。

欧米からもたらされた革新的技術を日本の企業が積極的に取り入れたことにより生産性が拡大にアップし、朝鮮特需下を上回る勢いで労働力が必要となりました。

この労働力を補うこととなったのが、中学校を卒業したばかりの若い人材たちです。

学制改革により高等学校への進学機会が男女問わず与えられるようになっていたものの、特に農村部では経済的事情から高等学校に進学できない子どもたちが多くいました。

かといって、農村部には働き口もほとんどありません。

農業

一方都市部では学歴インフレが起こり平均就業年齢が上昇したことで、ブルーカラー(製造業)やサービス業における労働力が不足している実態があったのです。

そこで地方出身の中卒労働者たちは、都市部の製造・サービス業に就職するようになりました。

これらは各地方自治体の職業安定所により斡旋されている例が多く、職業安定所を通じて就職した中卒労働者たちはまとまってひとつの列車に乗り、各都市部の就職先に赴きました。

これが俗にいう「集団就職」です。

多くの場合中卒労働者は高卒・大卒労働者より安価な労働力であったため、需要が拡大している工業・サービス業界において、彼らは大変貴重な人材でした。

一方で高卒・大卒労働者は公務員やホワイトカラーのサラリーマンとして働くことが多くありました。

 

集団就職と女性の仕事


集団就職下では、女性も多くの場合就職することが可能だったと言われています。

しかし女性中卒労働者たちの就職先は、たいていの場合職業訓練をあまり必要としない簡単なものや事務職、サービス職が多かったようです。

また高卒や大卒の女性についても、中卒労働者と比べれば高度な仕事が多かったとはいえ、あくまでメインで働くのは男性であり、女性は補助的な職務に従事するケースがほとんどでした。

当時の高学歴の女性がメインとなって従事できる仕事は、教師や看護婦(当時)など、女性が持つとされる「母性」を根拠とした職種が大半だったのです。

なぜなら、当時の女性の平均結婚年齢は24.4歳。

まだ「女性は結婚したら仕事をやめ、家庭に入ることが当たり前」とされていた当時では、女性が長く働くことは考えにくく、女性には育成コストがあまりかからない仕事ばかりが与えられるようになっていました。

看護師_介護職

豊かな社会の実現と女性の就業機会増


次第に農村部含め高校の進学率が上がっていったことにより、中卒労働者を都市部にまとめて送る集団就職は、1970年頃には衰退していきました。

高学歴労働者たちはより高度な技術・知識を要する仕事に従事するようになります。

この教育の充実が、日本の第二次高度経済成長期を招いたことは事実であるものの、結果的に事務職やサービス職に従事する人材が不足するようになりました。

そのとき、目をつけられたのが既婚の中年女性たちだったのです。

1950年代頃から急速にモノが豊かになっていった日本。有名どころでいえば「三種の神器」と呼ばれる白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫等の普及が挙げられます。

他にも電気炊飯器や電気掃除機等、さまざまな家電製品の充実により、家事労働に従事する女性には今までにないゆとりが生まれました。

核家族化により子どもの数も戦後まもなくに比べると落ち着いていることもあり、子育てをひと段落させた主婦たちはパートタイマーとして働きに出るようになります。

これが集団就職の衰退により生じた人手不足を、解消する一手段となったのです。

家事_育児_働き方

高度経済成長による女性活躍推進の弊害も

「性」の役割がより明確化されてしまった時代でもある

上述の通り、高度経済成長は女性に限らず多くの人にとって、学歴向上・就業機会の増という喜ばしい結果をもたらしました。

しかし女性活躍の観点から見ると、この高度経済成長がもたらしたものは、ひとえに喜べるものばかりではありませんでした。

一般的に男性と女性の「性的な役割」が明確化されたのはこの時代であると言われているためです。

日本の高度経済成長は、人々の長時間労働に支えられました。

そのためそれまでの性役割を基盤に、

「長時間労働をして家庭を潤す男性と、それを無償の家事労働で支える女性」

という性役割が、人々の中でより一層確固たるものとなっていきます。

そのため女性の就業機会が増えた一方で、就ける職業は高度の教育・技術を要さないものばかりで、実質職業選択の自由はないに等しかったのです。

また技術も経験も不十分なまま結婚して仕事を一度やめてしまった女性にとって、再就職は至難です。

そうなると最早正社員としての雇用は諦めざるを得ず、結果として前述のようにパートタイマーとして再就職するしかない状況がありました。

女性活躍の歴史②戦中~高度経済成長期のまとめ

徐々に女性の就業機会が増え、「はたらく」ことを考え始めた時代

いかがでしたでしょうか?

戦中から高度経済成長期にかけて、女性の就業機会とその幅はどんどん増していったことがわかります。

一方で男性と女性のそれぞれの性役割が、より明確に線引かれるようになったのもこの時代の特徴です。

また働けば働くほど豊かになっていく時代だったこともあり、この時代の人々にとってまさに仕事とは「ライフワーク」そのもの。

自らの望む生活や豊かさを、手に入れるための手段としての面が仕事には色濃くありました。

国際婦人年を契機に女性の労働が見直され、またバブル経済の崩壊を迎えることで女性に限らず、全ての人にとっての「はたらく」価値観が激動することとなる近現代。

どのように人々の働き方は変わっていくのでしょうか。

次回もお楽しみに!

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